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▼昭和の獅子彫師渡部亨氏の幻影1

昭和の獅子彫師渡部亨氏の幻影1/
中津川小屋集落で生涯400頭もの獅子頭を彫り続けたという、昭和を代表する巨匠 渡部 亨氏。

没後30年・・縁あって亨氏の知らなかった素顔と出会うような機会が訪れた。



米沢市に亨氏の長男故 東一氏の奥さんがおられ、唯一残された獅子頭を寄贈したいという話から始まった。

米沢市が亨氏の出身である飯豊町に寄贈の件を紹介し、12月22日に引き渡しをする事とになり私も同行する

事になった。平成4年に亨氏が亡くなるまで、一度もお会いする事も無かったので貴重な取材となるだろうと

期待して臨んだ。亨氏は亡くなるまで小屋地区の自宅で獅子彫を行なっていた。妻のしげさんは先に亡くな

られ暫くは一人暮らしで、土日にかけて米沢から息子さんとお孫さんが訪れるという生活だったという。

寄贈したいという獅子頭は川西町時田の八幡神社の獅子頭風で眉毛に金の巻毛を加え違わせている。

昭和60年、神社に伝わる享保時代の獅子頭の修理を行なっていて、その獅子をモデルにして制作したものだろう。




昭和55年頃、長井市屋城町の古山氏が42歳の頃、小屋の亨氏宅に獅子頭制作を依頼しに獅子舞に詳しい知人と

二人で訪れた。段々と獅子談義も盛り上がり、蔵に安置していた会心の総宮系黒獅子を二人に見せたのだそうだ。

妻のしげさんは「お父さん、この獅子は取っておきの獅子だべ・・」と出し渋った様子だったが、古山氏は大いに

その獅子が気に入り懇願して仕上げたのだそうだ。古山氏と同行した方からも同じ話を聞いた。

今回の訪問で亨氏宅の上空から撮影した航空写真を撮影させてもらったのでその情景が深まり広がってくる。


亨氏宅の航空写真。蔵だろうか?屋根が茅葺と思われる。

獅子頭木地を貯水池に浸ける。流れ水に晒すと乾燥や防虫の効果があると云う。栃はタンニンが強く浸けた水が焦げ茶に変色するほどだ。






上総型の獅子木地と亨氏



亨氏の獅子頭や取材の写真は「広報いいで」でも数回紹介されている。

図書館所蔵の資料No180昭和48年5月号表紙には上総(かずさ)型の赤い獅子頭(白黒写真)が掲載されている。

亨氏は初期の頃から上総型の獅子頭を制作していて、複数の獅子頭木地と一緒の写真があった。

菱川佐知子著 手職余話 獅子彫師「一生修行の身と彼は云う」の文中には小屋の集落上流の栂峰(つがみね)神社

の獅子頭を修理し新調した事が獅子彫りのきっかけとあった。また小屋集落は上杉藩の隠し金山と共に繁栄し戦後ま

で多くの人家や分校もあったが厳しい豪雪と産業の推移で過疎化した。その中で意外なのは、長井や飯豊では大勢で

交代しながら荒々しく獅子舞を行う獅子舞があることを知って驚いたという話である。


中津川は文化圏は米沢で獅子舞も神楽系の二人で舞うスタイルだった。中津川には長井の総宮神社系の多人数型は伝

播せず、中津川岩倉神社には江戸中期の神楽系の獅子頭が発見されている。最近まで中津川上屋地の若宮八幡神社の

獅子は数人のグループで地区を廻る「獅子頭で邪鬼払い」する形を目撃している。取材当時は若者三人だけで笛や太

鼓の鳴り物も無かった。代表者的な者が般若の面を首から下げている。神社拝殿にはひょっとこ面や太鼓笛があり、

わずかに神楽の名残が感じられた。




さて栂峰神社の獅子頭の所在や関連性も調査中だが、「広報いいでNo230昭和52年5月号」には亨氏が神楽獅子

を制作している写真が掲載されている。その文章では亨氏当時56歳、太田康雄氏50歳、蛇頭の制作は4ヶ月かかる

と紹介されているので総宮型の獅子も制作を始めていたようである。



昭和59年5月号には飯豊町役場新庁舎の記念

に亨氏と長男東一氏から贈呈された一対の獅子頭の写真が紹介されている。


「広報いいで昭和63年No361、1月号」

表紙には再び町に寄贈された一対の獅子頭の写真が掲載されている。飯豊町の神社の獅子舞では全て黒獅子で、亨氏

親子が何故に馴染みのない神楽獅子を寄贈したのか? 地元中津川の伝統でもある神楽の獅子頭を暗に主張したかった

のでは無いだろうか。この答えは栂峰神社に伝わる行方不明の獅子頭が語ってくれるかも知れない。  続く
2023/01/05 07:00 (C) 獅子宿燻亭10
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