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▼山下惣一さんを追悼する

山下惣一さんを追悼する/
小農の楽しさと強さ
――山下惣一さんを想う
 山下惣一(享年86歳・農民・作家)。今年(2022年)7月10日、肺がんのため唐津の病院で亡くなった。家族には「俺は寿命で死ぬのであって、ガン(病気)で死ぬのではない」と繰り返し、言っていたという。「俺は自分に与えられた天命を生ききったのだ」という事だろう。山下さんらしい話だ。
俺は幸運にも彼の葬儀に参列して、遺骨を拾うことが出来た。そして……「骨を拾う」ことの意味を繰り返し自分に問うていた。
 俺が両親の後を追いかけながら百姓としての人生を歩み始めたのは26歳の時。それから2,3年たった頃、偶然にその本『惣一ちゃんの農村日記』(日本農民新聞社)と出会った。
「えっ、こんな人がいたんだ!」いっぺんに持っていかれてしまった。作品上ではあるが、それが山下さんとの心地よい出会いの始まりだった。
 彼は平地に恵まれない佐賀県は玄界灘の山間部の農村で農業を営んでいた。村を覆う現実は何をとっても深刻なのだが、それを村の活きたエピソードとして、村人たちの泣き笑いの中で書いていた。それがすこぶる面白い。タテマエやアルベキ論、理想論のたぐいは一切ない。全てホンネ。だから東北の百姓の俺もスッと入っていける。「そうだ、そうだ」と同調し、笑い、怒り、共感しているうちに、著者の意図した着地点にいつの間にか運ばれている。気持ちのいい読後感と「あ、そうか。そんな見方もあるのか……」と数多くの気づきを与えられた。
以来、今日までいつも身近に山下惣一さんがいた。
 戦後、農政は、一貫して兼業農家や小農、家族経営農家の首切り、淘汰を進めてきた。山下さんはその渦中、彼自身が整理される側の小農、百姓として、小説、評論、ルポなど、50冊余に及ぶ作品を書いて来た。
当時も今も、時の政府は、離農促進政策と規模拡大政策が避けられない「鉄の法則」でもあるかのように触れ回り、それでもなお、農民であることをあきらめない者を恫喝し、農業を続けていくことが世間に対して悪い事でもしているような気分に追い込んでゆく。
「お前たちがそんな小さな農業を続けていること自体、社会のお荷物だ。いつまでこの国の経済成長の足を引っ張り続けたら気がすむのか」。俺自身もこんな言葉を投げかけられたことは一度や二度ではなかった。
「私たちは長い間、日本の農業は零細でダメだ、ダメだと言い聞かせられながら、首をすくめて生きてきました。もっと自信を持ちましょう。専業でも、兼業でも、半農半Xでも、日曜百姓でも、家庭菜園でもいいのです。全て小農です。小農だからいいのです。強いのです。楽しいのです。豊かなのです。そして強い農業が生き残るのではなく、生き残った農業が強いのです」(山下惣一「小農学会設立総会基調講演」から、2015年11月29日)
 山下さんは農と村の現場から、一貫して小農潰しの農政に、異を唱え、逆らい、そのことが農業、農民の利益だけでなく消費者の利益にも、社会全体の安定にもつながっていく道だと主張し、踏ん張ってきた。俺が今日までの農民としての人生を、誇りを失わずに歩んでこれた背景には、山下さんの大きな存在があったと今更ながら気づく。
 また、山下さんは「アジア農民交流センター」と「TPPに反対する人々の運動」の代表者でもあり、実践する百姓でもあった。俺も山下さんと共にそれらの団体の共同代表として、国内だけでなく、タイや韓国などの農民と交流を共にする機会があった。山下さんは現地の農民にすぐに溶け込む。その意味では稀有のオルガナイザーであったとも思う。
 実際に生きたことを言葉にし、話した世界を生きた。決して大言壮語の人、口舌の徒、筆先だけの人間ではない。
 山下惣一。彼の様なような農民は二度と現れまい。間違いなく彼は、戦後日本の自作農(運動)が産みだした屈指の人物だろう。
 小農はいま、いよいよ存亡の危機に追い込まれようとしている。山下惣一さんはすでに逝った。我々に求められているのは言うまでもなく「ため息」ではない。逆らっても抗っても、小農を絶滅危惧種に追い込む政策が勢いを増す中、まず、それらに立ち向かう次代を孕んだ地域事例。それも小農と市民との連携を主体とする地域事例を実態的に築いていくことではないかと思っている。俺はその道を歩み続ける。
山下さんの骨を拾いながらそんなことを考えていた。
コメント11件
岡田照男
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