▼草木塔をたずねてきた2008/09/02 22:25 (C) ぼくのニワトリは空を飛ぶー菅野芳秀のブログ
▼草木国土悉皆成仏 今朝、珍しく早起きして、もう夏も終ったと朝顔の蔓をベランダの手摺から外しました。そのまだ生な、生な存在を、どうベランダで堆肥にできるのか考えていたのです。その一時あとに、こちらの写真を見させていただきました。
2008/09/03 22:04:文庫 番:URL
▼それで・・草木国土悉皆成仏・・朝顔をどう成仏させるか、土にもどしてやるか。都会でうまれた朝顔はどこかかわいそうですね。
2008/09/04 07:42:菅野芳秀
▼朝顔、堆肥にできませんか?わたしもベランダは植物で一杯です。
朝顔の蔓、そのままでも、乾いてからでも古い土と混ぜて、黒いビニール袋に入れて半年寝かせたら堆肥になると思いますけど。 私は干からびたものをそのまま植木鉢の底の方に土と混ぜて、次の植物を植えちゃったりします。特に問題は無いと思いますが。下のほうは要するにスカスカなので、水遣りにちょっと気をつければ、良いと思います。 ミミズ?都会ではいないでしょうけど、私は雨上がりの道からミミズを拾ってきて、植木鉢に入れています。ミミズも車に惹かれないで命拾いしていると思うんだけど。 2008/09/08 22:16:久美子
▼ありがとうございます。 久美子さん。私も堆肥にもします。そのまま植木鉢に埋め込むこともします。黒いビニール袋は無いので、発泡スチロール箱を
一個と赤玉土の入っていた袋に詰め込んでいます。 そうですね。半年では完熟していないのが、僅かな稲藁と朝顔の蔓でした。昨年のをそのまま、植木鉢に入れたら、今年はこぼれダネでかなり込み合った芽生えがありました。 ミミズは拾ったことは無いのでそこが違うような・・・。 2008/09/09 05:51:文庫 番:URL
▼あぁもったいない二人ともおもしろい。近くにいたら二人はきっと気の合う友達になっていますよね。ドイツと東京。残念。それにしてもミミズの話にはおどろき!文庫番さんもきっと始めるよ。そんな感じがする。共通しているのは「いのちを土に戻す」ということ。肥やしが買えないから自前で堆肥をということではない。蔓とミミズの話には「土に戻してやらなければかわいそう」という感情が流れている。二人ともいい百姓になっていただろうなぁ。あぁもったいない。
2008/09/09 06:07:菅野芳秀
▼精神文化でしょう日本人特有の精神文化なんでしょう。万物?すべてに神宿るがある。生きものに手を合わせたり感謝する。山の神、日の神、お世話になった包丁やハサミ、お人形などなどにも。・・華道をたしなむ人なら想いを分かってもらえるでしょうが・・ハサミを入れる時にはゴメンナサイと言ってます。日本人に生まれてよかったです。事を荒だてること、大そうな事を好まず、いろいろあるけど我慢がまんの国民性。
・・・今の菅野さんは、その類かな。 2008/09/09 10:16:匿名希望
▼ミミズは・・・あの・・・・ ミミズはわたしが、 (言い換えると、)拉致しているのかも知れません。 ミミズが良い土を作ってくれると知ってから、雨上がりに道路にうろうろしているいえ、(にょろにょろしている)ミミズに目をつけたのです。 雨上がりに二人の子供と、ヨーグルトの入れ物と箸を持って拾って歩くんです。 ドイツ人が見て、「あー日本人はあれをおかずにしているんだろう」と、思いやしないかと、ひやひやしながら・・・ でも、もちろん道路を渡りきって他へたどり着くミミズもいたんでしょうけど、急にかんかん照りになったりすると、轢かれなくても 今度は、干からびてしまうわけで、あれが一番ミミズには辛いかなあと、今思い出しました。 そんなわけで、わたしに強制移住させられたミミズは新天地で満足していて欲しいですね。 ちなみに菅野さん、わたしの家庭菜園は今年良い収穫ができました。キュウリ、インゲン、トマト、ズッキーニ、シソ、バジリコ、サラダ、植えていないのにジャガイモと、ほんとにこんなに取って良いんでしょうか、というぐらい。毎日取り立ての野菜を食卓に載せながら、ほんと、長生きできそう・・・と、思う毎日でした。 2008/09/09 20:04:久美子
▼使わせていただきますおもしろいですねえぇ。15日のNHK「ラジオ深夜便」で使わせていただきます。
2008/09/10 05:06:菅野芳秀
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白鷹町に草木塔を見に行ってきた。それは森のそばの農家の庭先にあった。高さは約60cmぐらいか。自然石に「草木塔」と刻まれている。うかがえば江戸の後期、米沢藩から森林の管理と木材の切り出しをおおせつかった先祖が建てたものだという。
亡くなるとき「たくさんの草や木のいのちを奪ってきた。供養と鎮魂の碑を建ててほしい。」と願っていったという。塔はその子孫が建立した。今、森の切り出しはやっていない。だけど毎年、お供え物を添えてその碑を祀り続けてきた。
当時の人たちにとって森の木々にいのちを感じながら、それらを伐採し続けた日々はきっと気持ちのいいものではなかったに違いない。寝覚めだって悪かっただろう。「亡くなるときには、草木の化け物が・・・というようなこともいっていたそうだ」と守ってきたその子孫の人が話してくれた。分かるような気がする。
オレですら庭の木を伐採しなければならなくなったときには、やっぱり手を合わせてから作業に入るもの。そういえば娘が小学生のころ、道路拡張で庭の桜の木が切り倒される前日、B5の用紙に「追悼」と書いて泣きながら手を合わせていたっけ。こんな気持ちの有りようは珍しいことではない。植物と一緒に暮らす田舎では生まれやすい感情だろう。
さて、話は変わるが、今年の春の田んぼ。本来緑であるべき畦の草が除草剤によって赤く枯れあがり、緑の中の赤い帯が縦に横に伸びていた。そんな畦は、我が家の前に広がる水田のおよそ1/3ほどになっていただろうか。草は畦を雨や陽射しから守っている。このことは誰よりも当の農民がよく知っている。だが、忍び寄る高齢化か、日々の忙しさか、おそらくその両方なのかもしれない。痛々しい風景だった。
そこには草への感謝がない。謝罪がない。崩壊しつつある日本の農業。その再生には「草木塔」の心は不可欠だと思えるのだが・・・。こんなことをしていたら本当に草や木の魂が化けて出るかもしれない。