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▼今年は少ない「かなこおり」

今年は少ない「かなこおり」/
子供の頃、自分の周りには「つらら」という言葉は存在しませんでした。周囲のみんながいってるのはすべて「かなこおり」だったと記憶します。
いつの頃からつららになったのでしょうか。
急激に「つらら」になったため、以前に言っていた「かなこおり」という言葉が思い出せなくて、前に何といってたんだろう、、、などと考えたこともありました。
ばあさんに聞いて一発で思い出しました。

小学生の頃は大きいのを取って学校帰りに剣にして遊んだりしましたが、そんなことをやっている子供はついぞ見ませんね。

あと、かんかん渡りというのでしょうか。なんか誰も行っていない雪の上をそっと歩いていき、ずぼっと抜けて、長靴に雪が入る。雪は大量に入っても、少量はいってもすごくやな気分になりますし、靴下はかなりぬれてしまいますね。

寒いながらも、ずっと外遊びをしていたあの頃の子供は、どこに行ってしまったのでしょうか。

今日は休みのため、実家に調べものにいって来ました。

直江兼続が亡くなってから、彼の菩提寺徳昌寺に葬られたのですが、その後謙信の修行の寺である林泉寺とのあいだに寺争いが起きて、徳昌寺が破却されてしまいます。それは草一本に至るまでの徹底したものだったらしく、徳昌寺は故郷新潟の与板に憤懣やるかたなく、帰っていったのです。そして今でも大きな寺として与板にあるのだそうです。その後兼続の遺骨と墓は東寺町真福寺(お船の方のほうの寺らしい)そこでもトラブって北寺町東源寺を兼続の重臣、平林の下屋敷に開山します。兼続の遺骨はいまだこの寺に眠っているらしいのです。

徳昌寺は現在の徳町長慶寺にあったとのことで、徳町=徳昌寺でこの町名だけがその名残をとどめています。町名だけでもよく残ったものと思いますし、それをよしとしない与板衆などが多く存在したのでしょうか。明治時代までは徳昌寺町と呼ばれていました。


まあそういう争いはどこにでもあるらしく、その後林泉寺は高玉瑞龍院とも大きい争いが起こっています。なぜ徳昌寺がそこまで滅茶苦茶に破却されたのかという理由が真福寺の建立したときの棟上札に書いてあったとこのことを米沢信用金庫叢書3 直江兼続伝に書かれており、その詳細が米沢市史に書かれているということだったのです。

実家にある米沢市史は昭和19年登坂又蔵(二代目)の復刻版で原本からそのままコピーして一冊にしたものです。通史にはそのことはやはり出てこなくて、各論の宗教というところに、真福寺の棟上札に徳昌寺破却の真相が書かれてあったが、大正6年の大火で焼失してしまい残念だということが書かれていたのみでした。詳細は分からないというか、もし分かったとしても上杉家にとって都合のいい話であったわけもなく、抹殺してしまったのでしょう。

お船の方が亡くなってからは兼続の法事は与板衆により細々と続けられて、それを聞いた鷹山公がそれはおかしいと法事を執り行ったことが書かれており、兼続亡き後は、不識庵謙信の派閥、上田長尾景勝の派閥、そして兼続の与板衆との争いが本格化したのではないでしょうか。なんつったって、みんな武闘派ですし、殿様だらけの藩ですからねぇ。

天地人は与六にノックアウトという感じでした。
これからの天地人の展開が楽しみです。


2009/01/13 16:45 (C) 珈琲豆屋です!
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