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▼旧明鏡橋の思い出

旧明鏡橋の思い出/
〈仲を取り持つ明鏡橋〉
「ようぐ、こだい大きな機械来たもんだ」。
旧明鏡橋ができたのは、私が小学校を卒業するのと同じ年だったから、橋工事の様子や橋ができた時のことは良く覚えている。コンクリートを上げるタワーが高くそびえて、この静かな山村にゴーゴーと音が鳴り響いていた。子供ながらに、これは景気が良い、活気があるなと思っていた。
 あの当時は戦争中だったから、我々小学生は、工事現場にたくさん落ちていた鉄筋などの鉄くず集めをよくやった。当時はヘルメットなんてなかったから、拾いに行くと「来んなず、この野郎べら」とごしゃがれた。
橋が架かるまでは、大隅と栗木沢は、最上川をはさんでよく喧嘩したものだった。でも明鏡橋ができてからは喧嘩しなぐなった。私の母親はいつも風呂からあがると、「ここは大巻、向がいは栗木沢、仲を取り持つ明鏡橋」。こういう歌を歌っていた。          
(菅井敏夫さん)

〈終戦直後の明鏡橋〉
 私は昭和14年生まれだから、橋の方が2年先輩になる。小学校5、6年生の頃は、学校から帰ると、カバンなんかバーンと投げて、明鏡橋の下によく泳ぎに行ったものだった。橋から上流へ 150メートル位の間が泳ぎ場所だった。
 ある日、5、6人で泳いでいると、明鏡橋の欄干の上で大人の声がして、見上げてみると、欄干に20人ぐらいの大人が手をたたいたりして大声で笑っていた。しばらく立ち泳ぎしたりして遊んでいたら、上の方からチューインガム落としてくれた。落とせば、私たちが潜っては上がってくるから、その姿が面白かったのだと思う。今度はチョコレートも落としてくれた。そうやって30
分くらい遊ばせてくれて、最後にハーモニカを投げてくれた。しかし、そのハーモニカだけは、やっぱり沈むの早くて、子供の私たちは誰一人拾うことができなかった。終戦直後だったから、ガムでもチョコレートでもとても珍しくて、大変貴重なものをいただいたなと思った。帰ってから親に「何であだい大人の人いたんだ?」と聞くと、「アメリカの兵隊さんだ。進駐軍だ。」と教えてくれた。(志藤正雄さん)

〈恋の架け橋、ロマンの花咲く明鏡橋〉
 あの頃は、明鏡橋さ、栗木沢の人も大隅の人も関係なく、みんな夜な夜な集まってきて夜遊びしていた。んだがら私は、橋ができたのがうれしくてうれしくて、何べんも橋の上を走ったもんだった。みんな集まってきて夕涼みして、男女の出会いの場になった。別名「恋の掛け橋」と私は思っていた。事実何組ものカップルが結ばれた。そういう意味でも、橋が架かって本当に良かったと思った。(菅井敏夫さん)

 私の家は、旧明鏡橋のすぐ近くなので、青年会の方々が恋を囁いていたのをよく知っている。一晩に30人くらい集まって、「ワーワーワーワー」。笑った声、叫んだ声が聞こえ、それはすごかった。子供ながらにドキドキして眠れなかった。明鏡橋で何組も花が咲き、今でも幸せに家庭を持っている方がたくさんいらっしゃると思う。  
 もう一回、この明鏡橋を「ロマンの花を咲かせる朝日町の場所」にしたいというのが私の願いだな。(志藤正雄さん)

平成19年「明鏡橋思いで語り会」
※写真提供/堀敬太郎さん

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