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▼一寸法師・桃太郎症候群 (再び)

「菅野さん、こんなものが出て来たよ。」
一週間ほど前、おコメの配達先の元高校教師の知人に呼び止められた。それは以前、乞われて、山形県教職員組合の機関誌に書いたものだった。題して「一寸法師・桃太郎症候群」俺の写真入りの文章。まだ頭が禿げていない。ずいぶん前に書いたものだ。
 みなさん、お忙しい中での「閑話休題」、お酒でも片手にお読みいただけたらうれしい。
            以下 
春の眠りは気持ちがいい。冬の寒さが緩み、身体の緊張がほぐれて来たこともあってか、いつまでも布団の中でトロトロとしていたい。そんな朝の、まだ眼が覚めぬが眠っているともいえない「まどろみ」の時間には、夢とうつつが重なり合って、思わぬ方向に発想がふくらんでいくことが良くある。
 ある日のフトンの中、「20才の頃の私」と「桃太郎」と、「一寸ぼうし」が突然つながった。
 以下、その話を紹介するが、多少の飛躍や、突然の転換には眼をつぶっていただきたい。なにしろ、半分寝ぼけている世界でのことなのだから。
 20才の私はどういうわけか生き方を求めていた。自分らしい生き方をさがしていた。
 人生の岐路に立った時は、たいていの場合、自分がそれまでにたどってきた道を振り返り、どこかに何かヒントがないかを捜そうとする。当時の私に最も大きな影響を与えていたのは高校時代の三年間のはずだった。しかし、思い出すのは三角関数や英単語だけとはいわないが、頭の中をさぐっても、出てくるのは生き方とはあまり関係のない、あれやこれやの雑多な(と思える)知識がほとんどだった。
 そこでようやく私は、「いかに生きるか」を全く考えることなく、また学ぶこともなく20才になってきたという、それまでの人生の浅薄さに気付いた。    
 やがて、どうも、その浅薄さは私だけのものではなく、おそらく程度の差こそあれ、同時代人にかなり共通しているもの、あるいは大部分の日本人にさえ言えることなのではないかと思うに至った。
 何故かといえば、その根っこは、だれもが幼児の頃から、くり返し、くり返し聞かされてきた「桃太郎」と「一寸ぼうし」の中にあるのではないかと思ったからだ。
 まずは「桃太郎」。自分のものではないお宝を戦利品として自宅に持って帰るのはいかがなものかとも思うが、最大の問題は話の終わりかたにある。荷車いっぱいにそのお宝を満載して桃太郎は村に帰って来た。桃太郎は「お金持ち」になった。そして・・。話はそれで終わっている。手に入れたお金で川に橋を架けたり、学校を造ったり、貧しく苦しむ人たちに・・・そんな話はまったくない。 そして「一寸ぼうし」。彼も鬼退治をして、助けたお姫様と結婚し、やがて「エライお役人様」となった。そして・・、この話もそれから先がない。話はそこで終わっている。
 手に入れたお宝を使って何をしたのか、あるいは「エライお役人様」になって何をしたのかは全く語られてない。つまり、さながら、何かお金を得ること、あるいはエライお役人になることが目的であるかのように描かれているのだ。こんなお話を、小さい時から、くり返し聞かされてきた結果、「お金」や「出世」が人生の目的であり、その成功、不成功もそこにある、と考えるようになってしまったとしてもおかしくはあるまい。「一寸法師、桃太郎症候群」。志を失った高級官僚から「オレオレ詐欺」の若者まで、幅広くこの類に入る。その正体は「生き方」、哲学の不在。
そして・・、まどろみながら、論理の飛躍を楽しみつつたどりついた結論は次のようなことだった。私たちは「桃太郎」と「一寸ぼうし」に変わる「新しい童話」を子どもたちに語り聞かせなければならない。それは俺たち自身の物語だ。あっちでぶつかり、こっちで泣いた、けっしてカッコイイ話じゃないけれど、自分がたどってきた中から得た「生き方」を子どもや孫たちに伝えること。じいちゃん、ばぁちゃん、母ちゃん、父ちゃんの話、近所のおじさん、おばちゃんの話でもいい。子どもたちはそれらを聞きながら、これから歩む自分の人生を考えるだろう。夢中で生きて来たけれど、振り返ってみれば泣き笑いの連続だった。子どもたちに伝える材料には事欠かない。
 これが、まどろみの中の結論だった。
どうだろうか、ご同輩。

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